サイパン上陸の際に日本軍に攻撃されて動けなくなったアメリカ軍の戦車は,70年経った今も海に放置されています.
彩帆公園(現・砂糖王公園)の近くにある日本人墓地の慰霊碑.昭和二十年代建立のため,「大東亜戦争」と彫られています.
サイパン国際空港近くにある旧日本軍の弾薬庫跡.陥落後はアメリカ軍が使っていました.
旧日本軍の機銃.
旧日本軍の中戦車.朽ち果ててキャタピラーは外れ,内部は雑草が生い茂っていました.
「戦場でビール?」と思ったら,野戦病院で容器代わりに使っていたそうです.よく見ると右から左に「キリンビール」と書かれています.
最初の野戦病院跡.アメリカ軍の進撃が始まると撤収され,「歩ける傷病兵だけ」が移動していきました....
未だにこの地域からは砲弾などが多数見つかっています.地主の民家に集められていました.
サイパン島最高地点のタッポーチョ山から,今では観光地となっているガラパン地区を眺めています.
旧日本軍,民間人は北の方へと追い詰められていきました.
地獄谷の「最後の司令部」.大人の背丈ほどの高さの草を刈って数百メートル進み,さらに急斜面を数十メートル登ったところの洞窟です.
薄暗い洞窟はやや崩落が進んでいます.ここで日本に向かって斎藤義次陸軍中将が中央に,南雲忠一海軍中将(当時は形式的とはいえ陸軍を指揮していました)が右,井桁敬治陸軍少将が左に座って自決しました.その後,バンザイ突撃がなされて両軍に多数の死傷者が出ました.
なお,旧日本兵の遺骨収集は残念ながらあまり進んでいないようです(観光目的での渡航による遺骨持ち帰りは法で禁止されています).
「ラストコマンドポイント」(最後の司令部)と呼ばれていますが,実際の最後の司令部は前の写真です.ここは最北端の見張り台だったようです.砲弾の貫通の跡がありました.周囲の砲台は,後から並べられたものです.
バンザイクリフ.「高さ80m」と様々な資料に書かれていますが,「80フィート」(東尋坊と同じくらい)の誤訳と思われます.各種団体による慰霊碑が建てられていますが,チューインガムを貼り付けるなど心無い嫌がらせも見られました.
日本政府による慰霊碑.
スーサイドクリフ.内陸の標高100mほどの崖.ここからも大勢の日本人が自決しました.慰霊碑や墓があったのですが,心無い外国人により破壊,崖から投棄されるという暴挙がなされてしまいました(犯人は捕まっています).
ガラパン地区に残る奉安殿.